ボルネオ島、ジャングルの中にあるダガット村での生活・文化・生き物などについて書いてみます

カンポンライフ @ ダガット村

村の生活 自然と感覚

月と共にある暮らし

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一昨日は満月でしたね。月食もありました。

こちらでは月の出・日の入り時刻の関係で月食は見えませんでしたが、日本では見えたのでしょうか。

ここ数日は窓から入ってくる月明かりを浴びながら気持ちよく眠ることができています。

そんなこんなでここ数日は月に想いを馳せていたので、今日は月について書いてみます。

月とカンポンの生活は切っても切り離せません。月の満ち欠けもそうですし、潮汐、文化、色々な部分で月は生活と結びついています。昨日のビーバームーンのように、生活に密着して編み出された暦上の満月に名前が付く文化があることからも、月がいかに人々の生活に密着していたかが分かる気がします。

まず時間

時計を見ずとも太陽が時間を教えてくれるように、夜の間月や星がどのくらい動いたかは夜がどのくらい過ぎたのかおおよその目安になります。その『おおよそ』がカンポンでの生活では丁度良い。僕が時計を捨てるのにそう時間はかかりませんでした。

あの暮らしの中では時計のような一秒刻みの時間は概念そのものが相応しくないような気がしてきます。

時間と同じように暦も月が教えてくれます。曜日や一日区切りの日付も持て余してしまうような大らかな時間の暮らしの中では、約29日の周期での満ち欠けは丁度よい目安となります。月がこのくらい変化したからこのくらいだろう、そんな感覚。

日付、曜日、時間にきっちりの生活が染みついた僕も初めの頃は「いい加減だなぁ」と思っていましたが、慣れてくるとその時間感覚はとても心地が良いものでした。そして今ならこう言うことも出来ます。自然との繋がり、自然の一部として生活するのであれば、その時間感覚に従った方が何事も上手くいくものです。

月の満ち欠けは自然のリズムと密着した暦です。様々な自然現象と共に生きる生活ではやはり、どうしても概念的にしか捉えることのできない太陽暦より太陰暦の方が馴染みやすいのかも知れません。村民はイスラム教徒だからというのもありますが、日々そこに在る月、日々影響を受けている月の満ち欠けに沿った暦である太陰暦は生活に即しています。うちの義父もですが、太陽暦の日付はあまり覚えていなくても、太陰暦の日付はしっかり使いこなしていたりします。

Adat(慣わし)

その理由の一つには民族のAdat の存在もあります。Adat関連の行事も太陰暦に沿って行われるためで、実施する日付も「この月の何日目に」という風に前の世代からしっかりと受け継がれているのです。これはまた、Adatそのものが自然崇拝的なものであることからも、象徴的なのではないかなと思います。月もまた自然の一部であり、いくつもの伝承の舞台にもなっているのですから。それについてはまたいつか。

潮汐

漁村であり、潮の満ち引きの影響を受ける下流域に位置するダガット村にとっては潮汐も大きな要素です。潮汐は村民にとって、漁は勿論、川の水位や塩分を考えて生活の様々な場面で生かされるものです。「月が大きくなってきたからそろそろ刺し網を仕掛けるのはやめておこう。」そういった判断の基準になったりもします。(因みにこれは水位の上下が激しい時は仕掛け方を工夫しないとゴミで破れたりするためです)

月明かり

月の満ち欠けに伴って変化する月明かりは大きな要素です。特に、動物の行動が変化するため、シカを狩る人にとってはとても大きな意味を持ちます。

それは何も野生動物に限った話ではないのかもしれません。僕たち人間も仮に電灯や懐中電灯が無かったら、月明かりによって夜の行動は大きく変化する筈です。

満月前後では開けた場所なら懐中電灯なしで移動ができます。月明かりで本が読めますし、夜の間も様々な活動ができます。「もう帰るの?懐中電灯いる?」「今日は月が明るいから要らないよ。」こういう会話も日常的なものです。 懐中電灯を使わなくていいので、待ち伏せて投げ槍でイノシシを狙ったりもできます。

電気がないから日と共に起きて日と共に眠る、そういう部分は勿論あったとは思いますが、そこだけ見るのであれば月を忘れた人の発想なのではないかとも思います。それほど月明かりは明るく、生活と密着していますし、何より僕らの目は月夜には(驚くほど)ちょうど良く慣れ、光量を調節してくれるのですから。

月光、Moonlightという言葉からさえ直接的に月がイメージされる人も多いかもしれませんが、太陽とは違う柔らかさで世界を優しく照らす明かり 、その光が映し出し、表現する景色、それが月の魅力の一つだと思います。ただこれは、明るいものに引っ張られてしまう僕らの視覚の性質からも、あまり人工的な灯りがある場所では意識することが難しいのかもしれません。

人工的な明かりに邪魔されない月明かりの景色、そしてそれを捉えることのできる僕たちの目の機能は、都市の暮らしが染みついている人にはぜひ体験して欲しいものです。 何万年という月日の中僕らの祖先が見てきた景色がそこにあって、そしてそれは僕らの中に今も生きているということを何となく体感できるかもしれません。

このように月は、様々な部分でカンポンの生活と密着しています。言い換えればカンポンの暮らしは、月と共に生きることをまだ忘れずにいることができている、ということでしょう。それは僕たち自身が内外の、過去から現在へ続く自然と切り離されず、その一部として存在出来ていることを意味するのではないでしょうか。

ここ100年くらいの現代の生活では月を意識せずとも生活が成り立ちます。電気を使いカレンダーに沿った方が現代文明の生活には合いますし、そんな中では月はあまり意味を持たなくなってきているのかもしれません。でもそれは、忘れてはならないことまで置き去りにしてしまうことにならないでしょうか。今はまだ上手く言葉に出来ませんが、そんなことを感じている気がします。

2021年5月の皆既月食(部分月食時)

まだカンポンに帰れない日々が続いているのですが、このように街の暮らしとカンポンの暮らしのコントラストを意識させられることが多いです。それは寂しいことこの上ないのですが、長い目で見れば僕自身にとって貴重な時間なのかもしれません。

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