コロナ騒動の影響もまだまだ続き、まだカンポンに帰れず街に居るのですが、ここにいていつも寂しさ以上のものを感じるのが星が見えない事です。 寂しいだけならいいのですが、晴れていてもそこにあるはずの星々、それが描く模様が見えない、包み込む星々を感じられないのは、言いようのない不安や切り離されたような感覚を生むような気がします。
周りに明かりのないカンポンでは沢山の星を見ることができます。月が明る過ぎない夜であれば、視力0.1以下の僕が裸眼で天の川をはっきりと認識できるのです。そんな中で生活をしていると、いつしか星空は僕をいつも包んでくれている、見えない時もそこにあるようなある種のバックグラウンドとして認識されるようになりました。

当たり前なのですが、星空は季節や時間、場所が変われば見える部分がズレます。でもズレるだけなんです。大きな、包み込む全体としてはいつも同じ顔を見せてくれています(太陽系の惑星・月以外は)。だからなのか、星空に包まれると自分の居場所がはっきりするような感覚になるのです。言い表しづらいですが、一部となったような安心感があります。
カンポンで見る星空を怖いと表現する人もいます。数えきれない無数の星が見え、その数以上に見えない銀河や恒星があって、それ以上の数の惑星があり、そう考えていると確かに怖くもあるのかもしれません。でも考えるのを一度やめてみれば、そこにあるのは何千万年、何億年と変わらず僕らの祖先たちを包み込んみ、見守ってきた星空であり、祖先たちが眺め、感じてきた星空なのです。そこにあるのはやはり、時代を超えて繋がってきた星々と生命の関係から来るような、根源的な安心感なような気がしています。
『星は導く』この言葉も単に方角を示してくれるという意味だけではないのでしょう。

淡い光は本当に暗い所からしか見えません。暗闇はいつもそれを教えてくれます。
夜景に心を奪われるのはなぜなのでしょう。しかしその元となったであろう本物の星空は、100万ドルの夜景の前では見ることはできません。
灯りはある種の安心を人類に与えましたが、その中に居続けることで気づけなくなってしまう何かもあるのではないでしょうか。
こんなことを書いていると早くカンポンに帰りたくなってしまいますね。星の写真はあまり撮らないのだけど(蚊が多いから)、2016年に撮ったこの写真を見返していたら久々に撮りたくなりました。