ボルネオ島、ジャングルの中にあるダガット村での生活・文化・生き物などについて書いてみます

カンポンライフ @ ダガット村

振り返り 村の生活 自然と感覚

自給自足から思うこと 現代生活依存と生殺与奪権の放棄

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ふと思ったことを書いてみます。

オランカンポン(村落住民)は当たり前なこととして食べ物を森や川から採ってきます。何が食べれるのか、どうしたら手に入るのか。知っていれば知っているだけ色んな食べ物が手に入るのが熱帯雨林です。現代的な見方をすればお金を使わないスーパーマーケットとも言えると思います。

Sayur Manis (Sauropus androgynus / アマメシバ), Sayur Limus, Miding(Stenochlaena palustris), Kambang Kiyapu(ホテイソウ)の花

食べ物に関する知識は生きる為に身につけるものというよりは、楽しい生活の中で身につくもであり、それがもたらすのが彩としての食のレパートリーです。

食材に拘らなければいつもそこにある野生の水生空心菜やクワレシダを摘んで、川べりで投網を何回か投げて魚やエビを獲ればいいのです。普通はそれでは飽きるので、色んな食べ物をとったり、ちょっと多く取って村民同士でおすそ分けしあったりもします。

Paku Pakis (Diplazium esculentum / クワレシダ)を採取するバスリン
クワレシダはこちら↑

そんな彼らから感じることができるのが生に対する楽観、余裕です。

言葉にするのが難しいですが、身だけで生きていける自信が軸を生んでいるような気がします。

同じ国、同じ州に住んでいても、街人は違います。お金で食べ物を買うことしか知らない人、そうするしかない人は、収入はそれこそ死活問題です。極端な話、彼らは仕事が無いと最悪死んでしまうのです。だからその人達の視点で生を見た時に、その人と収入源はものすごく密着しています。

両者には価値観に大きな隔たりがあります。

例えば、『タダ飯食らい』は街人にとってはどこか罪なものですが、オランカンポンにとってはそもそも飯がタダなのは当たり前なことです。だから、その善し悪しは別として、オランカンポンは働かないことに寛容でもあります。

食糧調達は老若男女誰でもできる仕事

ふと思ったのは、晩御飯のおかずを買わなければならないのは、生殺与奪権を金銭に、そして金銭を与える仕事に握られているということでもあるのではないか、ということです。

カンポンでの生活をした後に街の生活をしてみると、生活の中で常に自分が可食のものを探していることに気付きます。小さな緑地や公園で食べれる野草を目にすれば「あ、ここに食べれるのがあるな」と思いますし、いい水路を見ればなんとなく「ここは魚が獲れるポイントだな」っていうのが分かりますし、ハトも食べ物に見えたりもします(カンポンではミカドバトを食べたりもするので)。

僕が食いしん坊なだけといえばそうなのかもしれませんが、大事なのはこれからです。

そういう感覚で普段から生活していると、いざという時の不安がかなり小さいのです。

例えばパンデミックでもありましたが、買い占めが起こった時、情勢が不安定な時、 仕事が見つからない時、 森の中で迷いそうな時。

「まぁ最悪食べ物はあるな」という余裕が常に残るのです。 これって大きいなと思うのです。加えて言えば 「ここでは厳しいけど、郊外のあの辺りに移動すれば食べ物は十分だな」 という判断も臨機応変に出来るので、別のプランが組み立てやすいことから余裕も生まれます。

自分で火を起こせ、飲料水を確保できて、シェルターが作れ、作物も自分で育てられれば余裕はさらに大きくなります。オランカンポンにとっては、それらも生活の一部なのです。

野生生物調査の一コマ 適応力の高い彼らは野宿も得意

不安や恐怖はパニックを呼びますし、パニックは視野を狭め、冷静な判断を失わせます。差し迫った命の危機で本当に不安にならなければならない時、恐怖に駆られないといけない時ならパニックも必要なものなのだと思いますが、上で列挙したものは本来的ではない、頭の生む二次・三次的な不安や恐怖だと僕は思います。でもなぜそんな不安が生まれるかといえば、実際に命の危機に感じるからでしょう。

それは、食という最も根源的な部分で知らぬ間に生殺与奪権を明け渡してしまっているから、別の言い方をすれば、自立できていない(依存状態にある)からではないでしょうか。

生きることは困難の連続だと言いますが、 生きることを難しくしてしまったのは、自然の中で生きる生活を忘れた我々自身なのかもしれないとも僕は思います。

「飽食の時代だから」「情勢は安定しているから」と思うかもしれませんが、何がいつ起こるか、いつインフラが機能しなくなるか分からないからこそ、災害に備える以上に普段からサバイバル能力を磨いておいた方が良いように思います。それは生きる為のみならず、人間の精神のためです。

死なない自信。生きる能力から生まれる余裕。それが生みだす軸が役立つのは非常時だけではありません。揺るがない軸は人を独立した個にしますし、生に関する様々な価値観を大らかなものにするものだとも思います。

生殺与奪権を取り戻すこと。それは何も難しいことではなく、生活可能な幅を広くすればいいのです。言い換えれば利便性への過度な依存からの脱却です。

それは戦争を生き延びた先人の知恵に学ぶことができますし、自然と共に生きてきた伝統に学ぶことも出来ます。便利に頼らない生活からも学べることは多いはずです。サバイバルを学ぶことも一つの手でしょう。

日本の場合は環境的に難易度は上がるでしょうが、基本は変わらないと僕は思います。

お米と調味料以外は現地調達なのに食事が豪華なのは、彼らのスキルと自然の豊かさのおかげです

元来人間にとって、生活とは自然であり、自然とは生活でした。自然の中で生きることは、自然に生かされることでもあります。そのありがたみを忘れてしまった時、人は自然を逸脱し、軽視し、時に病んでしまうのではないでしょうか。文明もまた。

おまけ

youtubeにGreat Depression Cooking(大恐慌クッキング)というチャンネルがあります。故人なのですが、クララさんというおばあさんが大恐慌時代を思い出しながらその時のレシピを再現してくれる動画が上げられています。

その中にはタンポポサラダというメニューも有り、そこにあるもので生きることのできる人のたくましさをこういった動画からも学ぶことができます。英語なのですが、優しさと余裕溢れるクララさんを見てみて下さい。

流されず、たくましく生きたいものです。

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